立地条件に恵まれても予想しない弊害があるものだ

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飛行場には5分、繁華街には10分と立地条件に恵まれた函館湯の川温泉。あまりにも立地条件が良すぎて、函館空港からタクシーに乗って「湯の川」って云った途端、運転手が急に愛想が悪くなる。考えてみると飛行機の客を2時間も3時間もまった挙句、ワンメータちょっとの行き先なら機嫌が悪くなるのも無理はない。乗る方も気兼ねしないで乗れるバスに乗る機会が多くなる。しかし函館空港のバスは飛行機の時間に併せて運行している。よって1日にさほどんの本数しか走っていないのに、たまたま手荷物を間違えられスーツケースを取り戻すのに時間がかかってしまた。スーツケースを取り戻した時にはバスはもう出てしまっていた。しばらくはバスは走る予定がない。仕方なくタクシーに乗った。この時は幸にして五稜郭にホテルを取っていたので運転手は機嫌は良かった。故に滅多にタクシーを使わなくなる。でも疲れている時や荷物が多い時は、タクシーに乗ってしまう。その場合は気分良く行ってくれる運転手にはチップを弾んでしまう。これが人間なんだと思わされる時でもある。

 あまり近い距離はタクシーの運転手に嫌われるので気遣いする

余談ですが先月、丸の内からタクシーに乗って、国立劇場と告げたら、運転手は右に曲がった。普通なら左に向かって春海通りを右に曲がるのが最短のはずだ。このままならどれだけ遠回りするのか不安になり、「随分、遠回りするんだ」と運転手に問うたら「これが一番近道だと」平気な顔して云い出した。これ以上、押し問答を続けてもしょうがないので、この話は止めた。案の定、普段より200~300円高かった。また悪いことに著者の家も大田区蒲田。それも羽田に近い南蒲田。これもまた函館空港と同じで運転手に嫌われる距離だ。違うのは函館空港と違って3,000円くらいはメーターは上がるのだが、東京のタクシーは納得してもらえない距離なのだ。結局、羽田でもバスに乗る機会が多くなる。しかも著者が乗るのは飛行機は、殆どがJALなので第1ターミナルになる。バスは第1ターミナルから次に第2ターミナル行く、そして国際線と羽田の中をグルグル廻る感じになる。タクシーに嫌われる距離だといらない気遣いが出てしまう。昔、実施していた「近距離」の復活を近代化センターに強く望んでいる。

 古い歴史と逸話が今も残る函館の奥座敷・湯の川温泉

函館の湯の川温泉は歴史は古く、諸説はあるが、享徳2年(1453年)に負傷した木こりが腕の痛みを湯治で、癒していたという記録が「正保古地図」に記されている。この湯の川には温泉の銭湯がある。他の温泉場や湯治場に見られるような外湯巡りとは違い、歴とした銭湯だ。その証に番台に人がいる。朝5時か6時には銭湯を開いているので、通勤や通学前にひっと風呂浴びてから出勤や遊学をするのだろう。このような温泉の場合は、湯口には少し削った丸太を突っ込んでチョロチョロ流している。著者はそれが嫌いで、湯船に入るなり丸太を外してしまう。湯口からはドーッと温泉が流れ出し、快適な気分にさせてくれる。2~3分もしたら元に戻し、平然と湯に浸かっている。しかし湯船には、湯の花の粉末みたいのが浮遊している。この行為が番台の親父に知れたらしく、著者の顔をみると何か云いたげにしている。多分、温泉のメータが上がるから、それを云いたいみたい。

 ここでは猿が気持ち良い顔をして温泉に浸かっている

年間130万人のが宿泊し、北海道を代表する湯の川温泉。道内屈指の温泉街として知られ、日量7,000トン(毎分4,861リットル)以上の湯量を誇り、泉質はナトリウムー塩化物温泉(中性等張性高温泉)で、透明で透き通るような湯は、日頃の喧騒を忘れさせてくれる。湯の川温泉の源泉近くには熱帯植物園があり、約300種3,000本の南国の珍しい植物を堪能できる。冬はニホンザルが温泉に浸かっている光景が見られる植物園としても人気。猿が温泉に入ると云えば長野県の地獄谷野猿公苑が知られているが、ここまで行くのが大変だ。山道を30分ほど歩かないと辿り着けないが、湯の川温泉は植物園は近いホテルなら3分。遠い所にあるホテルでも7~8分で行ける。ただ違うのは長野のは野生の猿だが、湯の川の猿は飼育されている。野生だろが、飼育されているかはさほど問題ではない。猿が温泉に浸かって気持ちよさそうに湯に浸かっいる。この光景がほのぼのとしているのが良いのだ。

 幕末で活躍した榎本武揚や土方歳三の想いが今の残る五稜郭

幕末や戊辰戦争に興味がない人でも「五稜郭」の名前は知っている。この五稜郭は、江戸時代末期に江戸幕府が、蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭である。当時、箱館奉行の支配下だった蘭学者の武田斐三郎に、外郭施設の土塁の設計を命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計した。そして武田独自の工夫もあり、「五稜郭」は我が国最初で最後の洋築の城郭となった。 現在は箱館奉行の再現され、堀ではカップルがボートに乗り、石垣や土類が往時を偲ばせている。また1,600本もの桜が東京より、ほぼ1ヶ月遅れを開花を迎え、市民の絶好の花見のメッカーとなり、楽しげに酒を酌み交わしている。また五稜郭には五稜郭タワーがある。初代は昭和39年(1964年)に完成。この年は五稜郭築城100年にあたり、高さは60mのタワーであった。これは航空法の制限に則った高さだった。二代目は函館空港の滑走路延長に伴い、航空機の運行経路が変更され、高さ制限が107mに緩和され、98mのタワーとなった。このタワーからの眺望は素晴らしく、五稜郭の星の形が実感できる。

 男爵芋の発祥の地の男爵芋記念碑が、何か誇らしげ

男爵の川田龍吉(当時函館ドックの取締役)が、苗種11種を輸入し、清香農園でジャガイモの試験栽培したのが「男爵芋」の始まりだった。もともと川田男爵が栽培を始めたイモを自ら命名したわけではなく、川田とともに試作をした村田惣次郎が、当該品種が病気に強いうえ早く実ることが判明。さらに品質も収量も良く農家の間で評判となり栽培が拡大。その後、七飯農業会が男爵が始めたジャガイモなので「男爵芋」と命名した。それから栽培を初めてほぼ100年。ひとつの品種がこれほど長い間消え去ることなく栽培されているのは、農業の世界ては珍しいことなのだ。またそれを記念して昭和22年(1947年)にし、男爵芋記念碑建立された。またメークインは函館から車で1時間ほどの厚沢部(江差追分の江差の近く)が発祥とされ、厚沢部では他の病気を恐れ、メークイン以外の作物は作らないそうだ。

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