佐野ラーメンと喜多方市ラーメンは、スープも麺も似ているので区別がつかない

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米沢は好きな街で、何度か訪れたことがある。ある日、会津若松に1泊して、米沢に向かったが、その前に喜多方市でラーメンを食べた、小さな街の割にはラーメン屋が多く、どの店が旨いのか分からない。市内をグルグル廻ってしまった。いつもの悪い癖で事前に調べておくべきだったと悔やんだが後の祭り。結局客が入っている店にした。その店の名前は覚えていないが、味はまあまあだった。しかしいつも感じるのだが、佐野ラーメンと喜多方市ラーメンの違い良く分からない。麺もスープも遜色がなく、両方出されてもきっと分からないと思う。どこが違うのか、教えてもらいたいものだ。喜多方市で思わぬ時間を潰してしまった為か、雨が降り出していた。陽も暮れて辺りは暗くなっていた。米沢に抜けるのは、どうやら大峠レインボーラインを通るのが近いらしい。麓の料金場で通行料を払い雨の中、車を走らせた。

 麓の料金所では「通行止め」を知らせてくれない。ただ通行料をとられた

雨は段々が強くなり、山道のキツイカーブをハンドルを切る度に、前方がかなり見づらくなってきた。運転には自信があるにせよ、こんな山道は苦手である。雨はますます強くなり、もちろん擦れ違う車はいない。前方はまだしもコーナに入ると左右が見づらい。少し不安になってきたが、今更引き返すわけには行かず車を走らせた。もう嵐と云っても過言ではない状況になり、それでもさらに30分も走った頃だった。「この先通行止め」の標識が目に入った。まさかここまできて通行止めはないだろう。とりあえず車を走らせた。しかし5分もしない内に完全に通行止めになった。この道路に入る時に料金場の親父は一言もいわなっかったのに…。憤慨しながら引き返した。料金場の親父一言文句を云わなければ収まらない。その料金場が見えてきた。「なんだよ一言教えてくれよ」と云った。「すいません私たちも何も聞かされていなかったので」と返された。意外に人が良さそうな親父だったので、それ以上何も云えなくなったが、本心は通行料を返してもらいたいくらいだ。でも米沢でホテルを予約しているので、どうしても米沢に行きたかった。

 米沢に夜10時頃に着いたが、人通りもあり食事ができる店があった

もう小さな道路を走ってもどうなるか分からないので、とりあえず東北道を走った。今は東北中央道ができたらしいが、当時はそんな道路はなかったので、福島飯坂で降りて国道13号を下っ走り。飯坂温泉当たりは道路も明るかったが、飯坂を過ぎてしまうと後はよくある田舎道だ。結局、米沢に着いたのは10時を過ぎていた。会津若松から米沢まではわずか100kmちょっとなのに、こんなに時間がかかってしまった。心配なのは夕飯だ。旅館ではなくホテルなので食事は付いていない。どこかでやっている店はあるのか心配になった。しかしホテル米沢駅前にあった。荷物を部屋に入れ、食事ができる店を探した。ホテルは意外と繁華街にあり、まだ若者たちが屯ろしていた。その若者たちを見て少し安心した。こなに人がいるのならまだ食事ができる店があるはずだ。そう思ったら「しゃぶしゃぶの店」がすぐ見つかった。今考えると「米沢牛」だったのか覚えていない。肉より生ビールが旨っかった。一人で運転していたので、開放感もあって特に旨っかた。

 米沢は八湯の温泉で知られており、全てが古からの歴史がある

翌日は米沢八湯の一つに数えられる小野川温泉に寄った。この小野川温泉は1,200年の歴史を持ち、小野小町の由来がある。病に倒れた小町がこの湯に浸かり、病を直した言い伝えが残る。その小野川温泉に数年前に一度泊まった経緯がある。ラジウムの含有量も全国有数で、美人の湯とも呼ばれ、肌や髪が艶やかになると評判の湯。温泉の泉質は含硫化水素ナトリウム・カルシウム-塩化物泉。温泉の効能は神経痛、リウマチ、皮膚病、慢性胃腸病など。泉温は83℃とかなり高温。湧出量は毎分1200リットル。また鬼面川(おものがわ)沿いの自然豊かな落ち着いた風情、そして天然のホタルが舞う「小野川温泉ほたるまつり」が行われる。街には4箇所の外湯の共同風呂があり、500円くらいで入浴でくる。ここではユニークな「豆もやし作り」が行われており、その作業場を初めて見た。温泉を利用した豆もやしは長さが24~27㎝もあり、新潟県の在来系統である「刈羽滝谷」というもやしに近いことが判明した。このことから上杉家のつながりで新潟県から米沢に持ち込まれたのではないか…との説もある。しかし今回は温泉に入らずに、懐かしさだけを堪能した。

 米沢の街を歩くと、謙信公や鷹山公が逢えるような気がする街

米沢は上杉家の縁のある史跡や建造物が未だ色濃く多く残る城下町。上杉家を継承した上杉景勝は徳川家康の反感を買い、120万石もあった石高を30万石に減らされ、さらに18万石まで減らされた。しかしそれは上杉謙信が死後の出来事で、もしも謙信が健在だったらこのような結果にはならなかったはずた。しかし米沢と上杉の関わりは長く、今日でも上杉家縁の物が数多く点在する。中でも「米澤藩主上杉家廟所」家祖である上杉謙信公などの御遺骸がある墓所で、上杉景勝が亡くなった元和9年(1623年)より上杉家の御廟所とされた。以後、歴代の藩主が埋葬されてきた。明治6年(1873年)に米沢城解体に伴い、米沢城に安置されていた上杉謙信の遺骸も、明治9年(1876年)に御廟所へ移された。また上杉神社の参道には上杉謙信公と上杉鷹山公の像も建立されている。鷹山は日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれた。宝暦10年(1760年)に、わずか10歳で米沢藩八代藩主重定の娘幸姫の婿養子となり、その当時上杉家は莫大な借財をかかえていたが、この困窮した藩を立て直したので知られている。

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